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パネリストの紹介:佐貫浩さん

法政大学教授。著書に「平和を創る教育」「イギリスの教育改革と日本」など多数。平和教育、教育政策分析、教育課程論を専攻。品川区在住。

パネリスト佐貫浩さんの発言

品川の小中一貫校構想について
――学校教育に格差と混乱を生み出す無謀な実験――  法政大学教授 佐貫浩

佐貫と申します。よろしくお願いします。

品川区の小中一貫校についてどう考えるかということで、私の考えを述べたいと思います。現在すでに小中一貫校については、2007年度の開講を目指して、具体的なカリキュラムが作成されつつある段階に入っているといわれています。それで、今回は、そのカリキュラム案から見えてくる問題点について、ふれてみたいと思います。

(一)カリキュラムの基本性格について、

すでに各学年別、教科別のカリキュラム案が提起されていますが、必ずしも具体化にいたるまでの詰めはされていないようです。また検討されているレベルも教科によって異なっているようです。ですから出されているものの詳細に入って議論を始めますと、かえって、このカリキュラム作成の基本的な意図やねらいが、見えにくくなってしまう面があります。このカリキュラム作成のプロセスをうかがってみますと、教育委員会の一方的な指示によって、多くの先生方が、一環カリキュラム案作成の作業に従事させられて、期限を切ってカリキュラム案を提出することを求められているという状況があります。しかも自分がそういうカリキュラム案作成の委員に任じられていることを明らかにしてはいけないという秘密主義のもとで管理され、作業をやらされている。さらにそういうなかで、後で触れますような品川の教育委員会の出している小中一貫カリキュラム作成の基本方針の問題点、矛盾点を切実に感じながら、とにかくその基本方針に沿った案を作らなければならないということで、自分でも納得できない案を作らざるを得なくなっている。それでもより良いものをという気持ちも合わさって、公表されているカリキュラム案には、複雑な性格が混在しているように思われます。ですから、その性格を最初に整理しておかないと、的確な問題点の把握ができなくなってしまうように思います。

ではこのカリキュラムは、どういう性格をもったものとして、分析していけばよいのか。

まず、第一に、このカリキュラムは、たんに個別教科のカリキュラムとして、個別にその内容を検討するというかたちでは、問題点の多くが見えてこない構造になっています。全体としての授業構成がどう変えられようとしているのかをみておく必要があります。具体的には、

1)全体としては授業時間数がかなり増やされ、総授業時間数は9年間で、普通の学校より372時間増えて9006時間となっています(10月28日段階の案)。そのため9年生(今の中学3年)段階では、5日のうち3日まで7時間授業が組まれています。このような詰め込み型の授業時間構成は、子どもたちに相当なストレスを与えるのではないかと案じられます。

2)また小中一貫カリキュラムのセールスポイントになっているステップアップ学習(9年生では、年間245時間、毎週7時間程度―――8月30日段階の案、10月28日段階の案では210時間)が組み込まれることは、学習を個別化=孤立化させるとともに、その単元の基礎理解のために一緒に学習する時間が縮小され、かえって落ちこぼしが拡大される可能性もあります。

3)また国語、社会、数学、理科、英語で重点的に授業時間が拡大されており、一般的にみれば、受験科目対応型に傾斜しています。

このような、カリキュラム構成は、どう考えても他の学校との格差化、エリート校化、受験学力対応型への移行という性格が明確であり、この点で厳しく批判されるべきものです。

第二は、そういう性格を持った学校への転換の責務を最も集中的に負った教科に顕著に現れている、「品川型繰り上げ一貫カリキュラム」という性格が大きな問題を抱えています。とくに国語と算数(数学)にその問題が現れる可能性があります。

第三は、もう一つの品川型小中一貫校のセールスポイントとなっている「市民科」と小学校段階からの「英語」の導入の問題です。このような新しい教科を全国的基準からはずれて実施することは、「特区」制度ができて可能になっているわけですが、子どもにとってなぜその教科が必要かは、それが全国的な検証を持たない実験であるだけに、相当慎重な教育学的検討と住民の合意が必要です。しかしこれは、ほとんど品川の教育行政の一方的な決定によって直ちに実施すべきものとされ、準備が進行しています。小学校からの英語を導入した荒川区でも非常に大きな矛盾と混乱がでてきており、そういう地域の先例をよく検討して、慎重に判断すべき問題です。

第四に、同時に個別教科の小中一貫カリキュラムの案には、それらとは異なった性格も組み込まれています。小学校と中学校のカリキュラムの一貫性をあらためて問い、より効果的な連携を考えるということ自身は必要なことであり、そういう意味での小中一貫カリキュラムの構想の検討は、それ自体としては重要な課題であり、そのこと自身を批判する必要はありません。教育内容3割削減といわれている今回の学習指導要領が系統性を無視して教えにくい内容になっていることなどをあらためる点などは、むしろ積極的に検討するべき課題でしょう。また社会科などでは、調査・研究型学習、総合学習型の学習のあり方、「単に知識を詰め込むだけではなしに、しっかり考えて、自分達の生活と結びつけて学習をしていく」工夫もみられます。いくつかの教科では、そういう工夫に力点を置いて、案が作られている面も指摘できるように思います。したがってこういうカリキュラムについては、その連携のあり方や、系統性がどう確保されているか、子どもの発達段階と適合しているかどうかなどの、教育学的な議論を慎重に行うことで、より良い小中の連携のあり方を探究するために丁寧に議論をするという対応が求められると思います。

第五に、カリキュラムというものをたんに教科に限定しないで、学校生活全体のプログラムと把握するならば、この小中一貫校がどういうものになるのかが、まだ非常に曖昧で、6歳から15歳におよぶ非常に異なった発達段階の子どもを、どう交流させ、集団を作り、自治を育て、行事を作り出していくかが、ほとんど検討されていないという問題が浮かび上がってきます。4・3・2という学年区分は、たとえば中学生の自治的な集団を育てる際に障害にならないのでしょうか。8,9年生だけの中学生徒会では、自治の訓練の継承もできない可能性があります。また、教科の学習時間の増加、7時間目までの授業時間の詰め込みは、子どもたちの部活などの自主的活動を圧迫し、教科の学力を高めるために、子どもを成績で「丁寧に」(がんじがらめに)管理して、ステップアップ学習などで自分の進度や学力順位を常に「自覚」し、受験教科以外を縮小して、最も効率的に学力を高める管理を徹底して行う学校に向かうのではないかとも思われます。しかしそれで豊かで創造力のある人間が本当に育つのかどうか。グローバル競争のなかで効率性がとことんまで追求されていく今日、人間として生きることに息苦しさを感じてきている私たちの生活実感からして、大いに危うさを感じないではいられません。

(二)「品川型繰り上げカリキュラム」は実現可能か

ではその中の、品川型の小中一貫校の特徴を最も中心に背負っている「繰り上げカリキュラム」について、その性格と問題点を見てみましょう。なお中島指導課長は、文教委員会の説明(2004年9月28日)のなかで、「前倒し」という表現を使っているので、「前倒しカリキュラム」と呼んでもよいでしょう。

「繰り上げカリキュラム」

「繰り上げカリキュラム」という根拠は、たとえば漢字についてみれば、現在中三までに読み書きを学ぶとしていた漢字(1306字)を中一までに学習する案が出されています(2004年8月段階の案)。文教委員会の中島指導課長の説明によると、やはり今まで中学卒業までに読めるようになるという1945字を、7年生(中学一年)までに読めるようにするという方向を提起しています。

算数=数学で見ても、算数から数学へのスムーズな学習のために、5年生で、従来は中学でやっていた負の数とか、文字の使用とかを始めるとしています。(10月段階の具体案では負の数は6年生、文字の導入は5年生となっている)。確率なども前倒しされようとしています。

さらにまた、一般的に「高等学校での内容が八,九年生に入ってくる可能性というものは十分に考えられる」と中島指導課長は答弁しています。

これらから伺えることは、小学校の四年生までに基礎を獲得させ、五〜七年生段階で中学の内容へ次第に移行し、八,九年生では、高校の内容にも挑戦するという全体としての「繰り上げカリキュラム」の構想が浮かび上がってきます。まだその姿は各教科のなかでは、十分具体的な内容にはなっておらず、実験を重ねつつ、次第にそういう方向へシフトしていくというのが、基本的なねらいではないかと思われます。

落ちこぼれが拡大される可能性

しかし、そういうことははたして実際に、入学生徒に選抜のない公立学校で可能なのでしょうか。その点はどう説明されているのでしょうか。

例えば次のような説明がでてきます。「算数から数学に移る段階で、負の数や文字の式などつまずきやすい七年生の内容を5・6年生からくり返しゆっくりと学習できるようにします」(「小中一貫教育NEWS第2号2004-11-30)。しかしこれは矛盾だらけというべきです。文字の使用(xやyなど)や負の数は、数学的抽象が一段と飛躍した数学的思考力を必要とします。それは発達年齢と大きく関係します。一般的には中学段階の発達段階に学習可能とされて配置されている学習内容を、5年生で学習することは、一部の成長の早い、抽象的思考のできる子どもはついてきても、普通の状態では、落ちこぼれを拡大してしまうのではないでしょうか。くり返しゆっくりとといいますが、前倒しカリキュラムが、どうして、「くり返しゆっくり」を保障するのでしょうか。これは矛盾だらけで、事態の本質を押し隠すごまかしの修飾語というべきものです。

同じような表現が国語に関しても使われています。同じ中島指導課長の説明で、「子ども達に、低学年のうちからこういった内容(常用漢字1945字を7年生までに教えることなどを指す)をしっかりと身に付けさせて、くり返しそれを使う機会を増やしていくということが、基礎学力の定着に向けて非常に重要な部分ではないかと考えているところでございます」(文教委員会議事録)とあります。今でも漢字を教えるだけで精一杯で、それをくり返し習熟練習し多様に使いこなす学習時間がなくて、現場の先生が悩んでいるのに、学習する内容を前倒しにして増やしておいて、どうやって今より沢山の「くり返しそれを使う機会を増やしていく」というのでしょうか。

また次のような中島指導課長の説明もあります。

「小中一貫校のカリキュラムというものは、そもそもこういった不登校の子ども達が小学校から中学校に行く段階で増えてきている状況がある。そこの部分を、この小中一貫のなかで改善できる要素が非常にあるというような、私たちの考えに沿ってつくられてきたという部分もございます。………小中一貫教育のカリキュラムのなかでは、今までお話ししてきましたようなそれぞれの教科の考え方に沿って、内容的な部分を前倒しする部分はございますが、そこの部分につきましては、時間を十分確保する中で、一人ひとりの子どもたちが学べるゆとりを持つかたちで、そこに個々へ指導を実現できるような体制を組んでいるわけで、これまでの学習指導要領に比べて、より子どもたちへの関わりは十分にできる体制をつくる、そのように考えています。」(文教委員会9−28)

しかしよく読めば、この説明は、何の根拠もありません。これもまた全く根拠を欠いた「ゆとり」、「時間を十分確保」、「関わりは十分できる」などの修飾語でごまかしているとしか言えません。「前倒し」が「ゆとり」を縮小こそすれ、拡大するという根拠はどこにもありません。それとも小中一貫校は、ほかの学校と違って、贅沢な教師配置をするから「関わりは十分できる」というのでしょうか。そうだとすれば、小中一貫校は学校の格差化によって、一部の学校に贅沢な教育条件を集める差別化のシステムだということを証明しているだけです。

詰め込み訓練型学習で対応?

ではどのようにして、「前倒しカリキュラム」を実現しようとしているのでしょうか。その一つのヒントは、「基礎・基本の徹底」の方法にあるように思います。「基本的な漢字と多くの言葉を使いこなせる子ども」とか、それから「小学校6年生までに常用漢字の大体が読めるようにする」とか、書かれています。こういうところをいろいろ考えていきますと、結局、前倒しになった教育内容を、徹底した反復訓練で教え込んでいくんだという方向が見えてくるように思います。

例えば、「基本的な漢字と多くの言葉を使いこなせる子ども」(「小中一貫教育NEWS第2号2004-11-30)という子ども像を考えてみれば、その漢字を読むという行為が日常生活で必要になっているということと繋がって、初めて実現可能になる。しかし小さい子どもにこれだけの漢字を覚えさせるにしても、その漢字を日常的に使うという生活とは切り離されているように思うのです。そうしますとそれは、基本的には徹底的に記憶させるという訓練によって学習させるのだということが見えてくるように思うのです。「暗唱、朗読、読み聞かせ」という部分もそういうニュアンスが強いように思います。

そう判断する一つの根拠は、中島指導課長の説明の中にもありますが、そこで、「文化審議会」の「小学校までに常用漢字を一通り読めるようにすることがのぞましい」という提言を紹介していることと関係しています。その中で、大きな役割を果たしているのが、斎藤孝という明治大学の教授です。(文化審議会国語分科会委員)千代田区に区立の中高一貫校というものができるようですが、その中で、斎藤孝氏の教育方法とプログラム(「斎藤メソッド)が採用されるのだそうで、彼はそこで授業を行なう教員の採用の中心にもなっています。そして今、カリキュラム、プログラムを彼の指導の下で作っているようです。彼はテレビにもよく登場しておりますからご存知だと思いますが、古典などを徹底して記憶していくとか、声に出して読む訓練とかを推奨しています。彼の「斎藤メソッド」は、徹底して暗唱させるという点に特徴があります。千代田区立の中高一貫校の方式を説明した04年8月30日の斎藤氏の講演会でも、「授業で徹底的に記憶させる」ことを強調し、その方法によって、多くのことを学べるのだと述べています。

しかし今日の子どもの困難は、自信喪失や家庭環境の困難、子ども間のいじめや落ち着きのなさなど、非常に深刻かつ格差的になっており、教師と子どもとの人間的な関わりが非常に重要になっています。徹底した記憶訓練型の勉強は、そういう困難があるなかで、その方法についていける条件のある生徒とついていけない生徒とを大きく区分けしてしまう可能性が高く、それについていけない子どもにとっては学習が全くの苦役になってしまって、矛盾を拡大していくのではないでしょうか。

またそのこととも関連して、この小中一貫校は、現在の子どもの困難をどう見るかという点で、いじめや不登校・登校拒否、大量の落ちこぼれ、学級崩壊、いま問題になっているADHD(注意欠陥多動性障害)などの軽度障害児の存在など、ほとんど視野に入れていないように思われます。小中一貫校はそういう矛盾からは最初から切り離されているかのような楽観的な計画になっているようにすら見えるのです。

(三)大幅に組み込まれる「ステップアップ学習」がもたらすもの

現場の先生方の率直な感想として、こんなカリキュラムになったらもっと落ちこぼれが増えるんじゃないかという心配を沢山聞きます。今見てきたように、その恐れを克服する独特の手だてがこの小中一貫学校にあるとは、どう見ても読みとれません。そう見てくると、そういう予想される困難な事態に対するこの小中一貫校の最も明確な対処方法が、「ステップアップ学習」ではないかと考えられます。

8月段階の案では9年間の合計で、665時間、各学年では、5年生−105時間、6年生−105時間、7年生−70時間、8年生ー140時間、9年生−245時間(週約7時間)設定されています。10月28日の段階では、全体が545時間(9年生で毎週6時間)となっています。

この学習形態については、まだあまり具体的な形が出されていませんので、一般的なことしか言えませんが、はっきりしていることは、とくに重点教科を中心として、その達成度に応じて、小グループでの習熟度別授業が行われるということです。そして、この小中一貫校で行われるその習熟度別学習の大きな特徴は、学習内容が時間が経つにつれて格差化されるということです。先に「繰り上げカリキュラム」のことを指摘しましたが、8,9年段階で高校レベルの内容も取り入れるという場合は、おそらくその多くが、この「ステップアップ学習」の内容として取り入れられるのではないかと思います。ということは、どんどん教育内容の先取りをさせるために、進んだ生徒には、高度な内容を教えるというかたちで、「進度」に応じて高度な「教育内容」を与えていくシステムとして、このステップアップ学習が位置づけられているということです。これは、同じ基礎の上に、その理解度に応じて高度な展開をするのか、基礎をみっちりやるのかという区分として行われる「習熟度別」学習とは違って、基礎的な学習内容そのものを格差化するシステムとして位置づけられているということが大きな特徴になるということです。

 そうなると、そういう学習は、当然個別化されていかざるを得ません。能力に応じた学習はともすれば個別の学習、結局孤立した個人学習、そして個に応じた教師の個別指導というかたちになることが多いのですが、そういう傾向が強まると、学校はまるで塾のような、能力別の階段を早く登る個人競争の舞台みたいになって、一緒に学び、一緒に生活することの豊かさを生かすことが弱くなってしまいます。学力が上がればそれで良いではないかという考えもあるかと思いますが、それだけになってしまえば、学校に行く楽しさ自体が大きく後退してしまい、かえって学習意欲が衰退するのではないでしょうか。

5、6年生から中学時代の思春期は、ご存知のように、生徒同士の関係が大きく発展し組み替えられていく時期です。それを楽しい、互いに協力していける、そして一緒に学習することが楽しいという、そういう関係に創りあげていくことが、学校作りの大きな課題であることは、現在も同様です。そこで子どもたちが自信を持てば、それが非常に大きな力となり、大きく学力も人間としての力も伸びていきます。しかし今構想されている小中一貫校は、子どもたちを能力に応じて細かく進度の段階に配分し、競争させ、孤立した学習をさせていくようなものになる可能性が高いのではないかと思います。

(四)小学校からの英語学習 ―――大きな混乱を生むもの

さらに小中一貫カリキュラムの一つの目玉が、小学校からの英語の導入です。この問題は、本当に慎重に考えていく必要があります。

グローバル化が展開している中で、私の印象としては、どれぐらい先になるか分かりませんが、将来的には小学校段階で英語教育が、何らかの意味で取り入れられていく必然性があるんじゃないかと考えております。これについてはいろいろ議論があるでしょう。

しかしだからといって、今、稚拙なかたちで小学校に英語を導入することは、大きな混乱を生み出し、子どもに悪影響を与えてしまうのではないかと考えています。

実際小学校の中で、外国人講師が色々話すのだけれど、何も分からない生徒は、ただイエス、ノーしか答えられないで、何時間目になってもその繰り返しというような状況もあります。何故そうなるかというと、第一に、日本のようなほとんど日常生活で英語に接していない小学生にどう英語を教えるかという方法とプログラムがまだできていないからです。第二に、そういう訓練を受けた教師も小学校にはいません。そういう教員の養成も配置もありません。英語にであう一番重要な最初の基礎的な発音をきちんと指導できる教師は、今の小学校にはほとんどいないでしょう。ただテープを聴かせるというような授業は、詰め込み授業の典型になってしまいます。

英語のカリキュラム理念を見ますと、1年生からは「言語や文化に興味・関心を持たせるとともに理解を深める」、「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成する」、「聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション力の基礎を築く」などとされています。そして1−4年生は「英語に親しむ」、5−7年生は「英語を身に付ける」、8・9年生は「英語を活用する」としています(「小中一貫教育NEWS第2号2004-11-30)。しかし本当にそんなことができるのでしょうか。中島指導課長は次のように述べています。

「3年生から4年生の身につけるところは、……たとえば英語活動を通して外国の行動や生活に関心を持って、簡単な英語でのコミュニケーションの仕方……を身に付けていくんだと。……脳生理学の専攻研究などを見ましても、1年から4年生というのは、音声的に、また言語習得的にもより自然に正しい音声を習得できる時期だといわれております。ですからこの時期に耳と音声とイメージと結びつけて聞きながら英語にしたしむことが非常に重要な部分になろうかと考えております。」

しかしそれは、日常の活動、生活と結びついた文脈で言語を絶えずくり返し聞きながら習得していくときのことであって、週1回の簡単な授業で、そういう力が付くとはとうてい考えられません。文法などなくていいといいますが、取り立てての勉強をしない小さい子どもが言葉を使いこなせるようになるのは、生活の文脈の中で、一つ一つの単語や表現が、文脈的意味を持って使われているから理解できるのであって、バラバラに英語の単語を覚えても英語として使うことなどできるわけがありません。小さい子どもは文脈の助けで、言語を文法に適するように使いこなすようになっていくのです。そういう条件がないとき、たった週1時間で、どうやって「英語を理解」し「英語に親しむ」のでしょうか。

そうなると今度は、塾が、しっかり単語を覚えたり、文法を教えたり、あるいは発音をくり返し訓練したりして支える場合にのみ、学校の英語が分かるという状態が生まれるでしょう。塾のバックアップがない子は、全く分からないという状態になってしまうでしょう。いや、すでにそういう状態は各地で起こっているのです。これでは大混乱になってしまいます。公教育として全ての子どもに英語教育を保障する手だてと教育の体制がそろわないうちに、今日のような準備段階で、これを決して強行すべきではないというのが私の率直な感想です。

(五)「市民科」について

それから、「市民」を育てるという「市民科」が新設されます。この教科もまた、未だ机上のプランに止まっていて、なかなか具体的な姿がよく分からない面がありますが、いくつかの問題が指摘できるでしょう。

第一に、今一番求められている市民教育の核心は、今日の社会の生きにくさ、おかしさを、政治参加の力、主権者としての権利の行使によって、切り開いて行く力量をどう形成するかということです。しかしこの市民科は、「正しい規範意識や公共精神」を獲得させるという徳目主義(徳目を教えそれにしたがわせる方法)に焦点が置かれており、たとえば、憲法学習をその核心にするというような視角はほとんどありません。憲法こそ、現代に生きる人間としてのヒューマニズムや正義観の国民的核心となるべきものではないでしょうか。

第二に、市民科が「日本人としての教養」に焦点を当てているのも大きな問題です。公教育は「日本人」を育成するのではなく、日本の国家と社会を担う主権者、すなわち教育基本法のいう「平和的な国家および社会の形成者」を育成するのであって、国旗・国歌の強制に見られるようにその個々人の内心、思想や価値観に入り込んで、今の国家に忠誠を尽くすような人格形成を行うようなことは絶対してはならないのです。何か日本人に必要な独特の素養があるとして、それを国や行政が決めて公教育で教えるということは、戦前、「教育勅語」にしたがって「臣民」がつくられたように、国家が人間の人格を管理し統制する道に繋がる危険性があります。

第三に、いじめや不登校・登校拒否、さらには暴力事件の多発、等々の問題が子ども・青年の中に広がっていることに対してどう対処するのかが問われています。そのためには、人格の一番土台の部分で、人間の尊厳、個の尊厳が実現されなければなりません。自分を大事にされたことのない子どもは、他者を大事にすることが困難になります。一人ひとりの困難に丁寧に対処し、この社会、そして大人(教師)の暖かさや優しさを、子どもが味わえるような丁寧な教師の指導体制が不可欠です。同時に子どもの表現を大事にし、一人ひとりの心の奥底にある思いをみんなで共有し合えるような学級集団を作り出すことが大変大事になります。すなわち具体的な学級指導が最も大事になるのです。市民科で徳目を教えるようなスタイルでは問題は解決しません。

第三に、文科省が学校に強制している「心のノート」が重要なテキストになると予想されますが、これは各方面から強い批判がでているように、社会の問題をいつでも自分の心の問題として、自分の心がけを変えていく方向へと誘導するものとなっています。これは今深く進行している「自己責任社会」―――低賃金のフリーターになるのは青年の働く意欲が低いからだというような把握で、フリーターを大量に生み出す雇用構造の不安定化、低賃金化への改編を批判する視点を欠いて、困難を個人の能力のなさや意志の弱さにしてしまう―――を、ソフトなかたちで受け入れさせる「道徳性」を訓練するものとなるでしょう。

確かに、この「市民科」には、東京のある学校で実施されているような「よのなか」科(杉並区立和田中学校、藤原和宏著『公立校の逆襲』朝日新聞社、2004年、参照)というような、地域社会との結びつきを探究し、地域の親や住民の学校教育参加を活性化させようという志向も含まれてはいます。

そのことに関連してふれておきますと、この「市民科」の構想では、「仁・義・忠・孝・礼」というような徳目が示されたこともありました(九月二日、校長・園長連絡会配付資料「現在の検討内容について」)。これは一面では、「市民科」に非常に古い道徳的な教えこみという側面が持ち込まれることを予想させますが、同時に、中教審だとか政府の構想している新自由主義社会型の市民のボランティアへの参加を訓練する意図も含んでいると思います。それは多分に「活動主義的道徳主義」――活動に参加させることで一体感を養成し、共同意識を持たせ、日本という一体感の中で社会批判を眠り込ませていくような価値意識を形成する手法――の方法を含んでいます。そういうものを子どもたちに実感させていこうとする試行錯誤を含んでいると見ることができるでしょう。

そこで決定的に抜けているのは、現在の学校教育の中で子どもたちが、死ぬほどの思いで今の自分の生活を生きている状況にあるという認識です。人間としてどう生きるかという困難に、子ども自身も死ぬほどの思いをしながら直面している。だからそこで求められている教育は、どうやって人間的に生きていけるのかということを援助し、子どもの中の矛盾を子どもたち自身が解いていく力と筋道を開く指導です。いじめの問題や登校拒否の問題にしてもそうです。それから子ども達は未来に希望が持てないという状況におかれています。平和などというものはこの世になくて、力の強いものがこの世を支配しているのだという実感に囲まれて生きている。あるいは能力・学力の高いものしかこの世の中では希望を持てないんだと考えさせられている。

そういう思いを持って必死に生きている子どもに、誰でも人間として生きていけるんだ、そして他者と一緒に生きていくことはこんなに心地よくすばらしいことなんだという経験を持たせることが、求められているのです。そういう課題と取り組むことを通して「市民としての能力の形成」を探究するということをこそ中心に学校づくりを考えていくことが、今求められているのではないでしょうか。

おわりに

最後に、どういう学力を、今、目指すべきかということについてふれておきます。

今日、経済開発協力機構(OECD)の学力調査で、2000年の調査に比べて、2003年の調査では、数学的リテラシーが1位から6位、国語の読解力が8位から14位へと下がった(15歳)など、日本人の学力がどんどん低下しているということが指摘され、大きな問題になっています。そして、これから学力をつけなきゃいけない、そのためにも「学力テストを」というようなことが、中山文部科学大臣からも強調されるような事態になっています。そしてまたその文脈で、学力を高める学校のあり方の一つとして、小中一貫校が注目されるような状況も生まれています。

しかしこれは非常に問題があります。ここでは詳しく述べられませんが、日本の子どもたちの学力が落ちているというのはある意味で当然です。なぜかと言うと、「人間として希望をもって頑張って生きていこう」という、そういう意欲や希望や自信が子どもたちから奪われているときに、学力だけが高度に維持されているよいうことはそもそもあり得ないと考える方が自然だからです。日本社会の生きにくさの拡大が、この結果を生んでいると考えなければなりません。

もちろん学力を高める独自の努力が必要なことはいうまでもありません。しかし、日本の子どもの学習意欲は、他の国と比べても特別に低くなっています。それは子どもたちを競争に囲い込んで、「競争から落ちたら、おまえの一生は惨めになる」とどう喝して、苦役としての勉強を強制してきた結果に他なりません。そうして40年間も、勉強嫌いで創造力、思考力に劣るけれども記憶と操作力の側面で高い水準を維持してきたという「日本型高学力」を実現してきたけれども、それが限界に来たということではないでしょうか。それが、もう成り立たなくなったからこそ、学力が目に見えるかたちで下がり始めているのだと思います。

た、日本のような受験学力はこういう結果を必然的に引き起こすものだと考える必要があります。日本の入学試験は、そういう記憶力と単純な操作力を試すものになっていて、その土俵で競争を強めても、問題は一向に解決しません。

ところが政府は、今また、その受験競争を強化することで学力を向上させようとしています。品川の小中一貫校も、おそらく日比谷高校にどれだけ入学するかというような指標を出して学力を競い合うのでしょうが、それは決して、子どもたちの学習意欲の低下をストップさせることにはならないでしょう。

同じ時期に行われた国際教育到達度評価学会(IEA)の学力調査でも、考える力が後退していることが指摘されています。例えば「大きさの異なる4つのカップのなかにろうそくがあって、火を付けるとどのろうそくが早く消えるでしょうか」という問題がありますが(「朝日新聞」2004-12-15参照)、これはちょっと考えればわかるんです。空気がいっぱいあるほうが長いこと燃えるに決まっています。でも、「酸素があるから燃える」、「空気の中には酸素がある」、「空気の量が多いほど酸素の量も多い」ということが自分の頭で関連づけられないと答えられない。考えるという事をしないとなると、そういう問題でも、正解を聞いたことがないから分からないとなってしまう。要するに自分であれこれと考え抜くという力や習慣が付いていない。とにかく沢山覚えろ。沢山覚えることで学力は上がっていくんだという形で、勉強に取り組ませてきた。「繰り上げカリキュラム」の発想は、それと基本的に同じ方向を向いているのではないでしょうか。

でも今、日本の教育改革は、「みんなに同じカリキュラムを与えるから落ちこぼれるわけで、できないやつにはそんなに与えなきゃ落ちこぼれなんて起こらない」という発想で進められています。それが「個性」に応じた教育という「魅力的」な言葉で、主張されているのです。そして、習熟度別学習がどんどん広がり、小学校から学校が複線化され――小中一貫校はそういう小学校段階からの複線化の試みともと言えます――、学校の多様化が進められ、学校選び競争が拡大されているのです。

そういう文脈の中で考えると、品川の小中一貫校は、学校選択制度の延長にあり、選択に対応して学校の特色化を進め、さらに学校の特色化は結局学校の格差化へと展開し、それは小学校から学習の質を格差化するという子どもの格差化、早期からの子どもの選別(=個性化)へと行き着きつつあるのではないかと思います。

しかし、個に応じた教育は、決して小学校段階からの格差化や能力に応じて習得する基礎知識を格差化することを必要とするものではありません。ヨーロッパの先進国――日本よりは一般的に個性が尊重されていると考えられている――でも、小学校段階からそういう格差化を進めることが個性実現のため必要だなどという常識はありません。

地域の子どもたちが、どの学校を選ぶかで苦心することなく、地域ごとに一緒に学びつつ、なおかつ個性を伸ばせるような丁寧で豊かな学校をこそ作り出すことが、住み良い地域づくりの核心におかれるべきではないでしょうか。

今まで述べてきたことからも、品川の小中一貫校構想は、教育学的に見ても確かな根拠がない危うい実験を、親や地域の合意もなく強行するもので、品川の教育に大きな混乱と、親の心労とをもたらすものです。そして無謀な実験によって子どもを傷つけてしまう可能性があるように思います。このような行政の一方的な危うい計画を強行することは許されないというべきでしょう。以上で終わります。

(これは、12月16日の教育シンポジウム 「小中一貫教育で品川の教育は何が変わるのか」の報告をもとに、佐貫の責任で加筆したものです)

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