鈴木 ひろ子
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-略歴- | |
1954 | 茨城県猿島郡猿島町の農家に四人姉妹の次女として生まれる。 | |
1975 | 長野県公衆衛生専門学校卒業・保健士資格取得 | |
1976 | 関東逓信病院に看護士として勤務 | |
1989 | 城南福祉医療協会・三ツ木診療所に勤務 | |
1997 | 同・西品川訪問看護ステーションに勤務 | |
-私の生い立ち- 子どもの頃は、そんな両親の元で自然に囲まれながら、また、休みの日には畑仕事を手伝いながら過ごしてきました。土を耕した後、白菜の苗を一列に並べたときの足を覆う土の感触なんかは、今でも心に強く残っています。昔は機械もなく、みんなで一列になって苗を植え、稲刈りのときは稲に寝ころびながら帰ったものです。年をとった両親が一生懸命働くのを見て、自分がやらないわけにはいかないと、そう思いました。 姉妹は4人で、しかも全員女なので、いろいろ悩みました。特に跡継ぎ問題などは深刻で、結婚式には両親は式にも出ないで、「早く帰ってこい」といっていました。私は次女なので、一番上の姉をよく見てうまく立ち回るような、そんな感じだったので、両親からは「いい子」と思われていたのかも知れません。そんな私が、父から帰ってこいといわれても戻らないのは、親からしてみればなおさらショックなのかも知れません。そんな父も、去年の11月に亡くなり、現在、茨城には母と下の妹が跡継ぎとして残っています。 |
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-共産党と私- 高校を卒業してからは水戸の看護学校に進み、共産党の演説会のポスターを見つけては参加し、「正しいことをいっているな」と思い、それで民青同盟に入りたいと思いました。しかし、看護学校には民青に入っている人はいなく、何かの機会に自分から入りたいといった気がします。当時は沖縄返還の問題で、民青と自治会の活動で、ものすごく忙しかったのを覚えています。自治会では一年間委員長を務めました。 その後、看護学校3年のときに、研修に行っていた民医連の病院の職員の人から誘われ、また姉もいたこともあって共産党へ入党しました。その後、看護学校を卒業してから、保健婦になるために入学した学校では、50人中5人が共産党員で、それが一年で15人にまで増え、みんなで集まり自治会などをつくったりして、とにかく活動に精を出しました。また、場所が長野だったので、スキー場でアルバイトしたり、みんなでハイキングに行ったりと、とにかく充実していました。きれいな川や、杏の花など、とにかく長野は自然の素晴らしいところで、その学校で過ごした一年間は私の青春時代といえるでしょう。 |
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-区議会議員への道- 民医連では介護を通じ、患者さんのことを生活からとらえることができ、また介護者がいかに大変かということを痛烈に感じました。毎日人生を学んでいる、そんなことを一緒に働く同僚と話しながら働いてきました。そんなときに、介護保険の問題がでてきて、私自身、「本当に誰もが良い医療を受けられる制度に変えていかなきゃいけない」と感じながら仕事をしていました。また民医連はそういった医療の改悪に対して、常に運動していて、ただ仕事をするだけではなく、もっと良い医療の追求をめざし、党員としての私の生き方と仕事がばっちりと合っていました。 そんな中、議員候補にならないかという話しが出てきたときは、はじめは「とんでもない!」と断っていましたが、政治を変えなければよりよい医療は実現しないという思いや、党員として生きていくという揺るぎない思いから、立候補することにしました。それでも、「区議なんてとんでもない」って思ったり、「いやいや、やればできるかな」って思ったりと、今でも行ったり来たりしています。 |
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