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沢田英次

沢田英次(前区議会議員)

2000年10月〜2006年12月のニュースを掲載しています。

2005年3月6日発行
第1097号


戦争だけは繰り返してはいけない
憲法9条への熱い思い
北品川で戦争体験を聞きました

 「戦争だけはやってはダメ」…先週土・日、私は北品川の皆さんを訪ね「憲法9条を守るために力を貸して欲しい」と訴えました。多く方より戦争中の実体験を聞くことができました。私は、聞くごとに「憲法9条は変えてはならない」と実感しました。

 話の中身を紹介します。

つらかった学童疎開 父親が自転車でパン運んでくれた

 2丁目のKさん。68歳の男性。

 終戦近くなると住まいの十条(北区)に米軍が焼夷弾を投下。道路が火の海になる中逃げ惑った。小学校2年のとき群馬県下仁田の寺に集団疎開した。忘れられないほどがつらかった。食べ物がまずく少なかった。毒のはずの梅の木の実が全部なくなるほどだった。親父が十条から下仁田まで自転車でパンや栄養剤(わかもと)を運んでくれた。その食料も盗まれた。

 私は兵隊に行ったわけではないが子供なのにあれだけつらい思いした。戦争は真っ平だ。

 3丁目のTさん。84才の女性。

 私は学校出ると召集通知が来て群馬県の太田市で働いた。女性だけで特攻隊の飛行機をつくった。それは帰ることを想定していない特攻隊のものだった。主人は満州で陸軍の自動車の運転をしていた。戦争に反対したために特高警察につけまわされた。3日ほど留置場に入っていたこともあった。戦争なんてやるもんじゃない。9条は変えてはいけない。

 2丁目商店の商店経営、72歳。

 台場小のところに測候所があった。それを狙ったのでしょうね。空襲で北品川商店街は、焼けなかったが、なぎさどおりの不幸はほとんど焼けた。品川小学校6年のとき50人ほどで奥多摩に集団疎開。食料がなくつらい思いをした。戦後、総武線で千葉に行く途中文字通りの焼け野原だった。戦争だけはやってはいけない。

「区長の憲法条の見解を問う」(代表質問) 
区長…意見は控える、恒久平和の事業続ける

 2月23日、私は代表質問で「憲法9条の区長見解を問う。第二次世界大戦の品川区での被害は」の質問をおこないました。

 高橋区長は「憲法第9条に対する意見は控えさせてもらう。品川区の第二次世界大戦の被害は品川区史によると罹災面積7・6ku、罹災世帯は12万世帯となっている。第二次世界大戦の惨禍を繰り返さないために非核都市品川宣言に基づき恒久平和を求める事業をおこなっていきたい」と答弁しました。