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菊池貞二 菊地貞二ニュース 2006年8月6日発行
第318号

 

憲法9条を守り戦争のない世界を
アインシュタインの手紙

原水爆禁止世界大会が開催されています。この時期には毎年、平和問題をニュースにしてきましたが、今年は「科学と政治」問題について触れてみたいと思います。

原爆投下までの歴史侵略と暴力の連鎖

「アインシュタインが原爆を作るようにルーズベルト大統領に手紙を出したことが、核兵器製造の発端だった」と言われています。しかし、この手紙が大統領に届けられてから実際の原爆開発・製造のマンハッタン計画につながる経緯は、それほど単純ではありませんでした。

  原水協の文献から見てみます。

抑止力論は最初から破綻

核分裂が発見されて以来、その発見がナチス・ドイツの原爆製造につながる可能性について、もっとも強い関心をもって取り組んだのは、レオ・ジラードでした。同時に、アメリカがドイツに先がけて原爆を開発して、ドイツの原爆使用をけん制すべきだという、今日の「核抑止論」のような発想を抱いていました。エドワード・テラー、ユージン・ウイグナーとともに「アメリカの原爆開発がドイツの原爆使用を回避するだけでなく、原爆を使った戦争をすれば、戦争の勝者も敗者もなくなり、戦争そのものができなくなるだろう」と考えました。そうなれば、通常兵器を使ったあらゆる戦争も廃止できるだろうとアメリカの原爆開発にきわめて楽観的な、夢のような期待を抱いていたのです。彼らは、アメリカ政府を動かすには、同じ亡命科学者としてナチスのユダヤ人弾圧に心を痛めているアインシュタインの知名度を利用して、ルーズベルト大統領に手紙を書いてもらうことを考えつきました。

  39年7月、ジラードとウイグナーはロングアイランドの避暑地にアインシュタインを訪ねました。アインシュタインはこのとき初めて、連鎖反応と原爆製造の可能性を知って驚きました。同時に、ジラードらのアメリカ政府を動かそうとする意図も理解しました。この時は、アインシュタインが手紙の内容をドイツ語で口述し、それをウイグナーが書き取って持ち帰り英訳し、後に何度も書き変えられ、大統領宛の手紙の草案になりました。

人道措置は無きものに

第二次世界大戦が始まった39年当時、アメリカの世論は一般住民への非人道的な爆撃に対する批判を高めていました。ルーズベルト大統領も、無防備な一般住民への爆撃を止めるように訴えるアピールを発表しています。

  しかし、真珠湾攻撃をきっかけに世界大戦に参加するようになると、アメリカの非人道的な爆撃への非難は、復讐への衝動を強め、45年にアメリカは東京大空襲をはじめ一般市民に対する爆撃をあいついで繰り返し、原爆を手にしたアメリカは、原爆を対ソ外交の「切り札」と位置づけるようになり、完成したばかりの原爆を、広島と長崎の一般住民に対して投下しました。

アインシュタインの思い

ナチスの暴圧を逃れて亡命してきた科学者たちは、核兵器を手にしたアメリカがこのように人間性を喪失し、変質していくことを予想だにしていませんでした。アインシュタインは、手紙に署名したことを生涯の最大の過ちとして、その後の生涯を平和のために捧げました。