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学校選択制と品川の町づくり

この記録は、11月16日、日本共産党品川地区委員会主催の「子どもたちに豊かな教育を」「学校選択制と品川の町づくり」のテーマでおこなわれた教育シンポジュームでの佐貫浩氏(法政大学教授)の講演をテープからおこしたものです。

(1)1980年代からの教育政策展開と「学校選択論」の登場

(2)現代の学校の親、地域への閉塞性

(3)学校選択の基準について

(4)「学校参加」対「学校選択」

(5)学校選択制度の弊害と問題点

佐貫浩氏講演

今の大野さんの報告を受けながら、学校選択問題について幾つかの論点を考えていきたいと思います。

(1)1980年代からの教育政策展開と「学校選択論」の登場

実は学校選択は、1980年代から、ある意味で実験済みと言ってもいい政策です。校内暴力が非常に激しくなりました1980年前後に、政府はほとんど、この中学校の困難を克服するための改善策を何も提起しませんでした。教師の数を増やすとか、学級の生徒数を減らすとか、教育課程を改善するとか、親の参加を制度化するとかは何も手を着けないで、公立学校の困難を放置したままで、学校の力量を向上させる政策は何も実現しなかったと言っていいと思います。そのかわり二つのことをしました。「した」というよりもそうなるに任せたといっても良いかも知れません。

一つは、私立学校選択の拡大へと親を向かわせました。「公立中学校は、荒れてしようがないから、私立中学へ脱出しよう」という動きが急速につくられたわけです。そのために、東京都でも、私立学校受験が急速に増えまして、東京都全体で20%を超えるような私立中学への進学率が生まれてくるようになったわけです。公立中学が改善される見通しを奪われて、親たちは、良い学校を私立中受験という形で、すなわち競争的な「学校選択」で、公立中学校からの脱出をはかるという行動様式を拡大していったのです。

もう一つは、公立の中学校の中では、管理が非常に強くなっていきました。もちろん現場の先生方は、強権的な管理主義で生徒を押さえつけるというふうにしないためにいろいろ工夫はされましたが、しかし、本質的に管理主義が進んでいったと思うのです。なぜかといいますと、勉強がおもしろくないわけで、その根本のところが変わらないままで、「やっぱり競争に脱落しちゃうと人生がないよ。頑張って、嫌な勉強だけども、やろうよ」というふうにして、意欲を競争でもって管理するシステムに子どもたちを追い込んでいくというふうにせざるを得なかったんですね。それは結局勉強嫌いを拡大していきました。

その結果、競争が進み、管理が進み、一方で「学校選択」への要求が進むという形になりました。その意味では、80年代から20年間、すでに中学校レベルの学校選択が拡大してきたわけです。しかしその結果として事態がよくなったかというと、なっていない。選ばれなかった公立中学校に対して、これでは大変だから公立中学校を選ばれるようによくしようというふうに、行政の側が教師の数を増やすとか、先生方がもっとゆとりのある労働条件を創り出すとかは一切やりませんでした。世論は結局そういう状況の中で、教育行政の責任ではなく、公立と私立が「競争する」という状況を前にして公立学校の頑張りが足りないじゃないかという風に考え、行政の責任が免罪されるという世論の枠組みが強められていったと思うのです。

しかし、今、学校に起こっている大きな困難を解決していく教職員の力量および学校の体制は、政策的に削減され剥奪されているといるというべき状況にあると思います。その問題を明確にしないで、選択を拡大して競争をさせれば教育が良くなるというのは、大きな間違いであり、困難を一層拡大することにつながっていくと思います。

私は、臨調・行革政策の下で、1970年代後半から、いわば労働者の間での労働条件をめぐっての「足の引っ張り合い」が起こったと思います。一般の基幹産業の労働者が非常に激しい労働強化に追いやられ、サービス残業を強制されたり、過労死の危険にさらされたりするようになる中で、「公務員は時間にチャッカリと帰って怠けている。我々はこんなに苦労しているのに」というような雰囲気があおられ、公務労働パッシングが展開されることによって、公務労働者の労働水準も一般企業の非常にしんどい労働水準に引き下げる方向で動いていきました。労働組合運動自身がそういう点で十分対抗できなかった面もあります。教師に対しても、「一般の親たちの仕事はとても苦しいのに、教師は夏休みもあって、週休2日に向かっており、それでも今の教育はよくなってないのは、教師の働き方が生ぬるいんだ」という形で世論がつくられて、教師に頑張らせるには競争原理を持ち込まないとダメだ、という風になっていきました。

しかしこれは、世界的な動向とは逆です。ヨーロッパで8時間労働制、さらには週40時間労働制が拡大していることからすれば、全く逆です。特に教育という仕事では、教師が忙しくて、くたびれているときに、子どもの心を丁寧につかむことが困難になります。教師にいらいらが起こり、ストレスがたまり、病気を抱え、また子どもたちもイライラやストレスを抱え、そういう子どもと教師が余裕がない状態でぶつかり合いながら、学校がどんどん非人間化されていく。そういう状態が進行している中で、教師は怠けているから競争させればよい、だから学校間競争を活性化するための「学校選択」だというのは、まったく学校の現実を見ない考えだと思います。

せめて──せめてと言ってはなんですが、せめて教育の場面から人間らしい労働条件をつくるというところから、もう1回すべての労働者の労働が人間らしくしていくというふうに逆転させなければいけないはずだったんですが、20年間あらゆるところで非人間的な労働形態が、まるで労働者相互の足の引っ張りあいみたいにして、広がってしまいました。こういう問題が今日、学校の困難をさらに加速しているのではないでしょうか。

(2)現代の学校の親、地域への閉塞性

もちろん、学校選択は、その問題だけで切ることのできる性格の問題ではありません。今、学校というものが親にとって頼りになるかならないかということが問われているんだと思います。その点で、学校は親の願いを受け止めて努力しているというようになかなか見えないということがあるのではないでしょうか。

その最大の原因は、学校の管理統制システムが、一貫して「上」を向いてきたということにあると思います。日本の学校は、一貫して文部省の強烈なコントロールの下におかれてきました。その中で、学校の先生方も、結局上からのコントロールに対応することに腐心せざるを得なくなっていきました。特にこの統制システムは、管理職を選抜しピックアップしていくシステムでもありましたから、校長や教頭になるにはこの統制システムへ忠誠を誓わされてきました。その弊害は、今日の校長先生の有り様に典型的にあらわれています。

私は昨年、1年間イギリスで教育を見てきましたが、イギリスの学校は、親と教職員と地域の代表、地域の教育委員会の代表が集まって、学校理事会をつくり、そこで、校長を採用します。学校理事会はそのほかにも、教員の人事、カリキュラムのあり方、生徒の処罰の仕方、予算の使い方など大幅な権限を行使します。日本的にいえば私立学校に近い形です。したがって校長は、その学校理事会に責任を持って、そこでこの1年間にこういう学校改革を実現するとか、3年間にこういう学校改革目標を実現していくとかこれだけよくしていくという約束をする。だから、校長は、教職員の同意と協力を得て、親に約束した学校改革を実現していくために全力を尽くす。そういうシステムの性格を学校の親と地域に対するアカウンタビリティー(説明責任)と言ったりするわけです。校長は、自分を採用した学校理事会、親や教職員、場合によっては子どもも入りますが、そこに対して、こんな学校をつくるという責任を負うという形になります。そして学校理事会は、時には校長の首をすげかえることもできるわけです。

そういうことから見ても、日本の校長先生は、まったく違っています。校長の責任は、教育行政に対する忠誠を誓うことだけで、後は問題を起こさないということになってしまっている。地域や教職員が、学校を何とか変えたいと思っていても、画一的な統制をするだけで、そもそも校長に、大胆な学校改革をする自由も勇気も、そして多くの場合力量もないという悲しい状態にあります。そして、君が代・日の丸問題に見られるように、教育委員会と文部省からこれだけはやれと言われたことは、道理が通っているかな、どうかなと疑問を持っても、それをやらなければ、校長の職務をちゃんと果たしてないといって、時には処罰までされてしまうので、高圧的な管理職にならざるを得ない。それこそが、学校を地域や親に閉じさせている第一の原因ではないかと私は思っています。

学級崩壊とかいじめとかということになれば、校長先生は、子どもたちがそこで非常に大きな困難を抱えているわけですし、親も不安を持っているわけですから、それを解決するために、自分の教育者としての生命をかけてここまで改善するということを親や子どもたちに約束して、だから、子どもたちにもいじめをなくすために一緒に頑張ろうじゃないかという、そういうメッセージを子どもにも伝えていくような校長さんといいますか、学校のあり方というものができればいいと思うんですけれども、そうはなっていません。そういう点では今日の学校の地域、親への閉塞性は、何よりも、上から統制し学校から自由を奪ってきた教育行政システム自体が創り出したものであることを、文部相自身が認識することが必要です。

学校が閉塞的で、困難に対して有効な対処をしているように見えない状況があれば、学級崩壊とかいろんな困難がある中で、親のほうも不安だし、何とかしたいと思うわけです。学校に対して意見も言いたいし、学校は一体何をしているんだと質問もしてみたい。それに対して、学校のほうから呼びかけが来て、今こういう問題があって、来年には必ずここまで回復したいと努力しているので、こういう協力をして欲しい、というような呼びかけがあるという開かれた学校なら、やっぱりいろいろ苦労しているんだという期待と安心が生まれ、自分も参加して学校を変えていこうという合意ができるわけです。しかしそれがない。そういうなかではせめて良い学校を「選択」できるということに、期待を寄せざるを得ません。そういう文脈の中で、今、学校選択が、親の側からも、閉ざされた学校に対するアンチテーゼとして期待され、学校に親の側に顔を向けさせるシステムとして機能してくれるんではないかと期待されている状況があるのではないでしょうか。

品川区のあるお母さんが書かれていましたが、うちの息子をどこの学校にやろうかというので、学校訪問をしたら、校長さんが出てきて、10分も20分も対応してくれたというんですね。今までそんなことはなかった。まだその学校の生徒にもなっていない子どもの親が、学校を知りたいといって訪れたら、わざわざ校長が出てきて、学校の説明とか、ぜひうちの学校に来てくれと熱心に説明してくれたというんですね。学校選択制度になったらこういう対応が生まれたということが、この選択制度が、学校が親のほうに向いてくれる契機になるんじゃないかという期待も生み出している。そこの問題をどう考えるかということが非常に大事だと思うんです。

(3)学校選択の基準について

では、学校選択では、何を基準に選ぶことになるのでしょう。実際には次のような点が選択の際の判断基準になっているように思います。

第一は、基礎学力とか、受験学力、進学という実績が大きな指標になっているように思います。第二は、いじめや学級崩壊があるのかないのかです。第三は、指導の方法ですね。教師が熱心にやっているかどうか。体罰が行われているかいないか、子どもが分かるような丁寧な指導がどう行われているかなどですね。第四は、子どもの人間関係、友人あるいは担任教師とのミスマッチ、などの要素です。第五は、豊かな設備、施設条件があるかどうか。第六は学校の特色。しかしこの点は、あとでふれますが特に批判的に考える必要があります。第七は、学区割りの不合理性への異議申し立て。今の学区割りは、もっと近いところがあるのにとか、場合によっては、学区割りが変わった場合に兄弟が別の学校になってしまうとか、個人の側から見ると不合理な面があって、そこは何とかしてほしいという、そういうこともあると思います。およそこのように分けられるでしょう。

ところがこの中の五番目の豊かな施設、設備条件というのは、当然学校施設の改善の時期は学校によって違いますので、一時的には格差が生じますが、基本的には、平等性こそ原則ということで、この部分を格差をつけていいところを選びなさいということになると、これは行政の無責任と言わざるを得ないわけですね。したがって、こういう形で学校を選ばせるということはやるべきでないとはっきり言えると思います。

それから、六番目の学校の特色(あるいは「個性」)を学校選択で選ぶのだという考え方ですが、この点については、深く批判的に考えてみる必要があります。学校選択をするのは学校の個性を選ぶのが目的だから、学校に個性がなければならないという逆転した筋で学校の個性なるものが提起されているように思うのです。よく考えてみると、その特色(個性)がよい特色であれば、広く採用し普及すべき特徴であって、それを一部の学校しか許さないシステムは不平等だということになるわけですね。例えばコンピュータ教育が盛んだという特色は、コンピュータをたくさん購入したり、情報教育の専門性を持つ教員を配置するような条件整備が不可欠になるわけで、もちろん、実験的に、ある学校が初めてやってよかったという、そういう意味での実験的開拓は各学校の自主性で切りひらかれるという面はありますが、教育行政の責任は、そこで拓かれたそういう先進的経験をほかの学校も導入したい、親の要求でもあると言ったら、それは頑張ってやってくださいと条件整備をするということですね。こういう点ではむしろ高い水準での学校間の平等性を保障することが、教育行政の責任であると思います。結局、もしそれが子どもにとっていい特色だったら、ほかのところでも広めるというのが当然のことなんですね。だからそこに格差をつくって学校選びを活性化するというのは、すべきではない。

また、うちは音楽が非常にいいとか、例えば、小学校で英語を始めているとかとなってきた場合には、学校の特色(個性)というのは、学校が名前を売るために、あるところに力点を置いて、子どもたちは学校の特色を実現するためにある特定の課題に画一的に動員されていくことになるわけで、それは学校の特色であっても、子どもの個性ではなくなり、逆に子どもは画一化されていくということになってしまいます。同時にそれは、学校の格差化を生み出します。私立中学受験をメインに指導している学校に人気が集まって、ある学校が多くの親に選ばれるということになると、当然それは、進学競争をあおることにもつながってきます。同時にそれは、同じ学校のなかで私立受験を望まない親の考えとの対立を生むことにもなり、公教育の責務は何かという学校内部での議論を必要とする状況を生み出すでしょう。受験に強いというのが学校の特色(個性)だという公教育のあり方自体が、本当にそれで良いのかということも検討されなければならないでしょう。またもしそこで、学校の側に生徒を選ぶ権限が与えられたりするならば、学校が急速に格差化され、ランク化され、親と子どもの側はよい学校を選択するための(入学許可を得るための)受験競争に駆り立てられるという事態にならざるを得ません。勿論今の品川の学校選択は希望者多数の場合は抽選となっていますから、これと同じレベルで批判できるものではありませんが。

いずれにしても重要なことは、小学校や中学校レベルで、子どもの個性を保証するというためには、学校をある特定の方向で特殊化するのではなく、子どもの多様性を保証するためのゆとりのある豊かな、そして、教職員の十分な力量と人数があるということによって個性が保証されるシステムをこそ保障しなければならないということです。子どもは自分の特性や興味の試行錯誤的な探究過程にあるわけですから、特殊化されたその学校の特徴(個性)に自分を合わせるという仕方でみんな同じ「個性」を獲得するということは、それ自体矛盾だといわねばなりません。高校段階では、職業選択などと結びついて、自分の能力の特徴にあったコースを選ぶなどの形で、選択を媒介にして自分の個性的な人生選択や能力獲得を進めていく必要があると思いますが、小・中学校段階では、一人一人の多様な興味を丁寧に育てる仕方こそが中心におかれるべきではないでしょうか。従って学校の「個性」を選ぶことで子どもの個性を実現するという学校選択の論理は、批判されるべきものではないかと私は考えます。

第四点と第七点は、学区割り当て制度の柔軟な運用――それはすでにいじめからの緊急避難や、学区割り当てへの一定の異議申し立てのシステムとして、対処されていることだと思います――は、改めての学校選択制度の全面実施の理由とはならないのではないかと思います。(後で触れますが、私は、このレベルでの補助的な学校選択制度は、必要であると考えています。)

そう考えてみれば、学校選択の第四から七までの理由(指標)は、必ずしも小・中学校での全面的な学校選択制度実現の理由にはならないと思います。そう考えると、はたして第一から第三の、「基礎学力」、「いじめや学級崩壊」、「指導方法の問題」など――それをここで「教育の質」と呼んでみたいと思いますが――が、学校選択制度によって改善されるのかどうかということが焦点になってくるように思われます。

(注)2000年12月7日「朝日新聞」に紹介されて専修大学嶺井教授の品川区の学校選択に関する調査では、学校選択にあたって、親は、学校の「特色」ではなく、「通学に便利で、子どもがいじめに遭わず、友達とのびのび過ごせる地元の学校」、具体的には、通学距離(78.9%)、子どもの友達関係(55.0%)、荒れの有無(32.1%)、教員の指導力(30.1%)、楽しい授業(24.6%)、学校規模(21.9%)、いじめの件数(14.2%)などとなっている。この結果からも、学校選択で「教育の質」が良くなるのかどうかこそが、学校選択を考える際の理論的な中心問題であることが分かる。

(4)「学校参加」対「学校選択」

もちろん「教育の質」を改善していくためには、教師の力を向上させていくとか、多様な筋道がありますが、ここで問題にしたいのは、親の関与の仕方です。学校選択をめぐっては、親が学校を選択するという公教育への親の関与の仕方が教育を活性化させると主張されているわけですから。そしてその点で考えられるべきは、「参加」か「選択」かということなのです。

日本の場合は、歴史的に戦後、1956年の公選制教育委員会が廃止された後は、一般的な参加の制度はほとんど、全くと言っていいほど学校の中には実現されてこなかった。しかしヨーロッパ社会では、1970年代から学校への父母、子どもの参加が次第に開かれていきました。これは、世界的なスチューデントパワーの展開を背景にして、若い世代の意見を学校の中に組み込んでいくということで、制度化されていきました。いろんな国で、親の学校参加が進められています。名前はいろいろあります。学校委員会とか、学校理事会とか、学校評議会とか。(この点については子どもの参加の視点から学校参加制度が紹介されている喜多明人他『子どもの参加の権利』三省堂、参照、またイギリスについては、雑誌『教育』(国土社)連載の私の「イギリスの教育と教育改革」2000年9月号から2001年6月号、参照)

その前提として考えてみたいことは、学校で子どもの権利を保障するのは何よりも教師の専門的な努力であるわけですが、しかし、そこでの教師の判断が、絶対だということで教師にすべてを任せているだけでよいのかどうかということです。あるいは、もちろんどんな職業にも、だめな人間がいるわけです。警察官にしたって、いろんな公務員にしたって、問題を起こす人が一人もいない、そういう職場というのはあり得ないわけです。そうすると、問題は、そういう問題を内部的に集団の中で解決していくシステムがあるかどうかが問題になるわけですが、その際に、内部(専門家)だけでの評価ではなく、外部(サービスを受けるもの)からの評価が必要ではないのかということです。逆に言えば、教職員なら教職員、学校なら学校という、「内部」だけでコントロールするということにはある種の限界があり、サービスを受ける側からの、親や子どもの側が自分の受けているサービスはほんとうにこれでいいのかどうかということを評価する、問題提起する、場合によっては批判するシステム、この必要が意識されてきているのではないかということを考えていただきたいと思うのです。

これはいろんなところで起こってきているわけです。例えば、医者と患者の関係は、教育以上に一方的だったわけです。しかし今は、患者の側が説明を受けて、医者の提案した治療を私は拒否するという、そういう権利もあるということがだんだん明確になってきているわけです。そういう関係を組み込まないと、ほんとうの自浄能力も働かないし、人間の尊厳も守れない。尊厳死の選択の権利、ガン治療選択の権利、等々が次第に行使されてきているわけです。まあその例につなげて比喩的に言うと、そういう時に患者としては、二つの選択肢があります。1つは医者あるいは病院選択です。こっちの医者が嫌だからあっちの医者に行く。これはもちろん患者の側の権利であるわけです。しかしもう一つは自分も参加して、自分の意見を言って、それは嫌だから別のものにしてくれ、こういうふうに言い、またそういう患者の声を取り入れて自分たちの医療システムを絶えず見直していく、いわば双方向の応答システムですね。

ところが、日本の場合は、親や子どもが、自分たちの受けている教育について意見を言うシステムがほとんどない。そういう参加の制度がないことに加えて、医者を替えることに相当する<学校や教師を替える>方法もない。そこに学校選択ということが出てきたので、これはひとつの救いだということになるような形になっている。従って学校を開き、親や子どもの意見や批判が受け止められる参加の制度を大胆に拓かない限り、親の側の選択への期待を教師の側から一方的に批判してみても、世論はほとんど納得しないのではないかと思うのです。

そのための参加の方法やシステムが今地域の側から、次第に模索されつつあります。高知県での父母参加の試み、長野県の公立高校での三者協議会など(民主教育研究所『人間と教育』旬報社、15号、雑誌『教育』国土社1999年4月号、同001年5月号参照)、次第に広まりつつあります。政府が今出してきている学校評議員制度というのは、校長が勝手に評議員を選んで、校長の諮問を受けるという非常に不十分な、場合によっては教師への統制のためのシステムとなるを逆効果につながるだけのものです。そうではなしに、そこで親たちや地域の代表も参加したり、場合によっては子どもも参加したり、教職員の代表も参加して、学校のあり方を考えて、そして、教師や校長は、そこでなされた意見を酌みながら、学校の計画を明確にして、その実行を親や子どもたちに約束する。

そういう際に子どもの参加が重要です。例えばいじめをなくするということを学校の教師や校長が子どもに約束する際に、子どもも一緒になってその解決に立ち上がろうじゃないかという呼びかけをするということが非常に重要ですが、教育というのは子どもの力を引き出すことで、ある目的を実現していくというなわけです。参加ということは、そういう子どもの力を信頼し、その子どもの力を学校作りの力として発揮させ、子ども自身が学校の主体になっていく方法でもあるのです。

また参加のシステムによって選ばれた学校の代表――イギリスでは文字どおり参加の制度である学校理事会が校長を採用するのですが――が、例えば三年間でこういう学校をつくるという案を出して、そして、親や子どもたちに約束をして、教職員の協力を得て、三年間全力を尽くす。場合によっては校長が罷免されるぐらいの、そういう緊張感のあるシステムをつくる。学校の自由とは、教職員だけの自由ではなく、親をも含んで、自分たちの代表を選び、学校運営の方針をつくり、学校の自由な改革と発展を進めていく自由であり、親をも含んだ自由と考えなければなりません。だからこそ、その自由が実現されているなかでは、文部省や行政からの一方的な教師攻撃に対しては、親も一緒になって反撃することもできる。なぜなら親も一緒になってつくった計画の傷害になっているものが何であるかが分かるからです。教育行政に対して、自分の学校をこうしようと思っているんだけど、教職員の数がこれだけでは絶対できないということであれば、それは例えば、品川なら品川の区議会で、特別にこれだけの教師を増やすということを要求して、合意して要求していく。今、子育てにとって、安心して子どもを任せられる学校をつくれるかどうかは、まさに家族にとってのライフサイクルの一大事と言っていいほどの重さを持っているわけです。そういう意味で、親と子どもに対して責任を負う教職員のありよう、校長のありようというものをつくり出す。それが同時にほんとうの意味での校長のプライドといいますか、誇りといいますか、専門職としての力量といいますか、そういうものをほんとうに花開かせていくシステでもあるのだと思うのです。それができなければ、日本の学校教育は変わっていくことができないんじゃないかと思うのです。

そういうふうに言うと、しかし、今の日本の教育行政では、そんなことは起こりっこないじゃないかと思われるかもしれませんが、同じ方向ではありませんが、財界のほうも同じ規模の改革案を出しつつあります。従来のやり方ではだめだというので、教育委員会なんか要らないとか、文部省も要らないとか、そういうのをいろいろ提案したりしてきています。こういうなかで、私たちの側も、根本的な改革案を提示しないと、私たちの真意すら理解されないというようになるのではないかと恐れるのです。

(5)学校選択制度の弊害と問題点

さて、義務教育段階での学校選択制度からは、いろんな問題が起こってきます。

第一に、国民、父母の教育権の核心は、受けるべき教育の内容を、親や住民自身が参加して決定する権利を持つということにあるわけですが、選択の論理はこの論理を持っておらず、従って参加の権利を代替することは出来ないと思います。参加の権利こそ、教基法10条の精神に添うものとして実現されるべきものです。もし、学校に対する不満を自分も参加して学校を変えられるというふうになってくれば、親の疑問やエネルギーは学校をつくり変えるエネルギーとして、それぞれの学校にある意味で平等に配分されるわけですね。選択の場合はどうなるかというと、結局、エネルギーがあって、学校を移っていく条件とエネルギーのある親たちがいい学校を選ぶという形で活性化されるけれども、みんなの学校参加という意欲はむしろ喪失させていってしまうのではないでしょうか。日本では、「参加」を避けるために「選択」でお茶を濁すという機能を持てせられているのではないでしょうか。

第二に、学校選択は、特に日本の場合、高校入試及び私立中学入学競争という形で、学力と資金力を持つものに選択の優先権がある形で実施されて来たという歴史があります。高い授業料と高い学力基準による選抜は、むしろ学校が生徒を選ぶシステムでした。そのような選択は学校の格差化、競争の拡大、そして教育費の私費負担拡大の動向と一体でした。今日主張されている選択は、果たしてそれらを克服しているのか。確かに品川の選択制は、今の段階では選抜をしない選択ですが、
(1)実質的に学校を選択できる条件が経済的に制限され階層差を持っていること、
(2)特に貧困地域、多民族混住地域では、困難を避ける脱出の方法として選択が一定の裕福階層に多く利用されること、
(3)希望者が多い場合の抽選が、しばしば選抜へと変えられていく危険性
などを厳しくチェックしていく必要を感じます。

第三に、今日のような学校の困難の時代にあっては、選択は移動の条件がある強者が、「良い学校」を選び、「悪い学校」から脱出する方法として機能する可能性が高くなります。それは優秀な生徒を困難校から一層奪い、困難な学校が困難要因をますます多く受け入れるという格差化につながる可能性が高くなります。また急速な少子化のなかでは、統廃合されそうな弱小学校が一層不利になって廃校を促進するという「効果」も生み出すことが目に見えています。本当にそれでよいのでしょうか。イギリスでは、学校選択制によって、クリーム(要するに、上澄みの一番好い部分、優秀な生徒のことですが)が困難な学校から評判の良い学校に奪われて、一層大きな困難を抱えていく悪循環が問題になっています。学校というのは、「クリーム」部分がなくなると立ち直るのがより困難になるという問題があるのです。学校は困難な生徒もいるけれども、しっかりした生徒もいるということで、頑張ってやっていけるという形になるわけです。いい生徒ばっかり集める学校がいい学校だということは、悪い生徒が集まる学校はだめな学校だという格差化が、教師の努力に関わらず悪循環として進行していくということです。だから、我々は、率直なところ、<悪い生徒もいい生徒もいるという学校>を、それがいい学校だと言えるように改革する力量を回復することによって学校改革を進めていかないと、いけないわけです。そうでなくて、格差を放置し拡大して、いい学校と悪い学校をつくりだし、みんなができるだけいい学校を選ぶようにすれば教育が良くなるというのは、嘘だと思います。それはたいがいだめな学校にだめな生徒を集めることで、良い学校が生き延びていく階層化の方法なのだとみる必要があると思います。

第四に、この学校選択制は、教育行政は、学級崩壊や学校の困難に対して、責任を負わなくても良い構造を生み出すイデオロギー作用とでもいうものを持つ面にも注意しておく必要があると思います。学校の責任にすべての困難が押しつけられ、努力が足りないとなり、選択されなくなって廃校という手順は、すべての学校で学級崩壊やいじめが起こる可能性を抱えているなかでは、行政の責任を放棄するものであるというべきです。むしろ学級崩壊などに対しては、教育の自治に相応しい形で、行政と親と教職員との協議によって、特別な対策と援助を加え、学校の力量を回復していくことがむしろ住民共通の願いであるといって良いでしょう。だめな学校は学級崩壊になって評判が落ちて、選択されなくなって、消えていって良いのかということです。地域にとって学校がなくなることは地域衰退の一歩に他なりません。困難を教師の力量不足のせいにして放置しておいて良いほど事態は甘くないのです。学級崩壊はどの学校でもおこる可能性があります。そこで取られるべきは、学級崩壊のない学校を選ぶことではなく、すべての学級崩壊を克服することです。選択制度が学級崩壊を克服するということは今日の教師のおかれている条件や子どもの状態からして、あり得ないというべきでしょう。学級崩壊という困難を放置しておいて学校が選択によって改革されるというのは、教育行政の責任放棄というべきです。今日、悪い学校はもちろん、教師の責任もあるかもしれませんが、これだけ困難が増えている中では、どの学校でも悪い学校になる可能性は幾らでもあります。問題は、そういう困難をみんなで克服していくために、どう力を寄せ集めるかであるのに、悪い学校のところに、困難要因を全部集めておいて、いい学校のほうは困難を排除しておいて、悪いところは教師が悪いんだというようなシステムにしている限り、地域社会は崩壊していきます。

第五に、隣近所、地域、保育園、幼稚園、小学校、中学校という生活における交流と協同が、地域を維持している大きな要素です。しかし選択制は、この地域社会に亀裂を生み出し、逆に地域からの脱出をはかる手段ともなっていきます。まず子どもが分断され、それに従って親が分断されていきます。学校選びのための心労や葛藤も増えるでしょう。その具体的な内容については、地域のお母さんたちからの報告のなかに、具体的に示されていると思います。

(6)参加を核とした学校制度の構想

最後に、全体としての学校制度構想について触れておきます。

第一に、何よりも重要なことは、親の参加を制度化することです。そして親の参加した学校の自由を確立することです。そして校長は、学校の自由を担いながら、親と子どもに対して、自分の学校計画を責任を持って、いわば親と教職員、子どもと教職員と校長の契約として学校計画をつくって、毎年それを点検しながら、学校改革を継続的に推進していくようなシステムが必要です。そこでは、校長を、学校単位で、何らかの方法で民主的に選出していくシステムが不可欠になっていると思います。上に対してではなく、親や教職員に対して責任を持つ校長を生み出す制度が不可欠です。学校の自由や地方の自由をいうなら、上からの統制の手段となってきた校長制度を変えなければ本当の改革には絶対なりません。

第二に、当然、教育条件の整備、30人学級から20人学級というのは、世界的動向です。教師がゆとりを持って、少し子どものことをゆっくり見られて、研究して、教育にこういう工夫をしてみようかなという余裕がないと、教師は枯渇し、披露し、創造性を失っていきます。人間的な労働条件を、今日の国民的な切実な願いである子どもたちを育てるという職場から、実現していこうという国民的な世論が必要です。もちろんそのためには、教職員は、ほかの領域の人たちの労働条件をよくするという連帯をしなきゃいけない。そこのところが重要です。

第三に、補助システムとしての学校選択というのは私はあり得ると思います。一つは、制限つき選択制度。例えば、北海道でやっていますが、過疎で学校がつぶれそうなところで、山村留学ということで学区外から受け入れる。自然のあるところで生活できますよと。自分の学区から出ていくことは許さないけど、入ってくるのは許可するというようなケースですね。これは、過疎なんかのところで、そういう選択制はあり得るわけです。これは、都市なんかでも、場合によってはあり得るかなと思ったりしますが。制限つきの選択ですね。2つ目は、緊急避難等の選択制度。これは今でもあります。いじめ等を理由にした学校選択や転校ですね。3つ目は、新しい学校をつくり出す制度としての選択制度。これはフリースクールだとか、登校拒否の生徒なんかが、親たちが集まって学校をつくり、そういう学校を選ぶ権利、そういう学校に行けたら、公立学校に行っているのと同じ条件が与えられるような、そういうある種の選択権。こういうものは、今日不可欠だと思います。そういう意味では、私は学校選択をすべて否定する必要はないと思うんです。


以上で私の問題提起を終わらせていただきます。重要なことは、地域の親の側には、かなりの学校選択への賛成と期待の気持ちが存在していることです。そして私が強調したいのは、そこにはある種の「必然性」があるということです。従って、その「必然性」の部分を重視することのなかから、またその必然性に「共感」することから議論を出発させ、広い合意を得ながら、小・中学校の学校選択制度の本質や問題点を認識していくような議論の回路をつくっていただきたいということです。今後、学校選択に伴う色々な矛盾がでてくると思います。生徒が集まることによって逆に大規模学校化したり、一クラスが40人いっぱいになったり、小規模校での教育活動が困難になったり、色々な矛盾がでてくると思いますが、そういう事実に即して深く学校選択制の問題点を明らかにしていくことが重要だと思います。

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