プロフィール


 @氏   名 宮崎克俊(みやざき かつとし)
 A生年月日 1955年5月15日(47歳)
 B住所 品川区西大井5―17―6〜103
 C電話 03―3775―0768(Fax兼用)
 Deメールアドレス miyazaki@jcp-shinagawa.com
E出身地 新潟県大和町
F当選回数 2回
G区議団役職 日本共産党区議団幹事長
H所属委員会 厚生委員会 行財政改革特別委員会(副委員長) 議会運営委員会
I所属機関・委員 表彰審査委員 スポーツ協会評議員
J区議会での主な履歴 予算特別副委員長 区民委員長 決算特別副委員長
 清掃・リサイクル特別副委員長 議会運営委員
K家族―妻、長女(大学生)、長男(高校生)
L趣味 旅行(温泉) 音楽鑑賞(最近はクラシックを聴きながらパソコンに向かっている)


 私の生まれたところ・自己紹介

 私は、1955年(昭和30年)5月15日、新潟県南魚沼郡大和町浦佐で5人兄弟の4番目として生まれました。高校卒業後上京し、働きながら立正大学夜間部に学び、その後、ゆたか病院、大田歯科、大田病院で働き医療・福祉を守るために活動。95年からは、あぜ柳誠一さん(故人)の後を受け継ぎ日本共産党の区議会議員として奮闘してきました。
 以下、これまでの私の歩みを紹介します。

@ 私のふるさと新潟県大和町はこんなところです

「新潟県の南端魚沼地方の中央に位置し、霊峰八海山を東に望み、清流魚野川を中央に抱く、四季折々の自然に恵まれた町です」(町長あいさつ・大和町ホームページhttp://www.town.yamato.niigata.jp/index.htm)。現在、母親と鉄骨屋を営む兄一家が住んでいます。大和町の有名なものを紹介します。
●「魚沼産こしひかり」の産地。南部生協でも扱う「八色すいか」は「他より手間をかけているのに見合った値段にならない」と中学校のとき理科の先生。
●八海山は信仰の山。近年中高年の登山客が増えているようです。酒も有名ですが蔵元は六日町にあります。魚野川は、今は季節でも釣り人はまばら、遊ぶ子どももいない。
●上越新幹線浦佐駅前の田中角栄像。ロッキード事件で逮捕後建てられた。「なぜ、こんなところに?」といわれた浦佐駅の新幹線停車への地元の気持ちが表れなのか?
●浦佐スキー場とスキー学校。スキー場そのものは南斜面でベタ雪だ。私は高校受験を数日後に控えた大事な時期にスキーで捻挫、その左足はいまも具合が悪い。
●『裸押合祭り』=三月三日(「さんげつみっか」という)は、日本三大奇祭のひとつと言われる。雪がうずたかく積もっているのに男子中学生は動員された。
●地域医療の「ゆきぐに大和総合病院」。前院長は「学生運動の闘士」だった黒岩卓夫氏、その奥さんは前参院議員の秩子氏、息子も先の参院新潟選挙区補選で当選した。

A 実は、親父(宮崎勝彦)は日本共産党員でした

私と日本共産党との出会いは親父が共産党員だったことが最初。親父は満州で終戦を迎えソ連(シベリア)に4年間抑留後、昭和24年復員。日本共産党には昭和27年に入党した。親父の自費出版「端末のうた」によれば入党直後に逮捕、大衆的抗議行動で釈放されたとある。昭和39年には県議選に立候補。1998年に亡くなるまで共産党員だった。浦沢与三郎さん (元日本共産党新潟県委員長・故人) がよく親父に会いに来たのを憶えている。
私は小学校2年生ころから高校卒業まで赤旗日曜版の配達を手伝った。昭和38年は「さんぱち豪雪」、電線をまたぎ玄関まで下りながら配ったのはなつかしい思い出だ。

B 私の学んだ六日町高校のこと−先輩には元環境庁長官…

●高校は六日町高校(六高・ろっこう)。私が1年生のとき50周年を迎えた。「♪開けどはてなき自然の扉 憧憬れ精進みて止まざる心…」の校歌は山田耕筰の作曲。どれもパッとしない学校だったが、野球部が甲子園77回大会に出場した。
●高校では剣道部に所属、二段。剣道は防具が臭いだけでない、冬は前日の汗が凍っているバリバリの剣道着を着るのです。剣道はいまでも時々やります。
●入学当時の校長は「大漢和辞典」を書いた諸橋轍次を親に持つ。さすが六高…と思ったが、日本史の先生は、最初の授業で「家永裁判を知っているか!」と延々1時間説教、最後に「新聞は全部ウソだらけだ、赤旗だけは本当のことを書いている」と叫んだ。この先生は日本共産党員だったのだろうか…?
●卒業名簿をみるといろいろだ。品川在住や品川区の職員、さらに私と同業の日本共産党専従者もいる。桜井新(さくらい・しん)自民党代議士の名前もある。氏は環境庁長官就任直後、戦争賛美発言により辞職した。大臣就任祝賀会の前だった。

C 立正大学二部では学生運動。そして、日本共産党への入党

●立正大学夜間部の「学生運動学科」
  立正大学夜間部に入学したのは、高校の進路指導の先生に口説かれたから。私は就職するつもりだったが「もったいないから夜間に行け」と就職も一緒に決めてくれた。
でも、そもそも勉強するつもりがなかったから、学生自治会活動の強引な誘いにズルズルと…。当時の闘争課題は前年の学費値上げ反対闘争に参加した学生に対する「処分」をさせない闘争。消耗な運動だった。また、当時の学生運動は授業に出ないのが当たり前。こんな運動だったおかげで、最後は卒業しないで退学した。
  ひとに聞かれたとき私は「立正大学夜間部学生運動学科中退」といっているが、本当は文学部史学科中退だ。
 ●日本共産党への入党は、この立正大学夜間部1年の12月。当時の入党申し込み書は「決意」や「生い立ち」を長々と書かされた。小林多喜二のように逮捕・拷問されたらがんばれるか、と本気で考えたものだ。また、学生の入党には「党員候補」期間が半年間あった。この期間で適正を確かめるのだが、私はだいぶ引き延ばされた。しかしこれは指導部の党員が手続きを忘れていたらしい。
  学生党員は、やたらにマルクスがどうの資本論がこうの…言葉が踊った。しかし、ある経験のある党員が「資本論のなかに日本革命の方針があるわけではない」と、党綱領の重要性を話したことがあった。私はこの言葉にひどく感動したことを憶えている。

D ゆたか病院、大田歯科、大田病院…民医連職員から日本共産党区議会議員に

●私がゆたか病院に勤めるきっかけは、私がちょうど失業中に三島春光さん(当時ゆたか病院ケースワーカー、立正U部の先輩)に声をかけられたこと。大田病院でなく「現地採用」、24歳の時でした。
私は仕事が速いほうでしたが、受け付けや保険請求など好きではありませんでした。中断患者の呼び出しや患者向けリーフレットの作成、品川社会保障推進協議会の事務局長、患者さん宅を訪問して政治や医療の話をするなど、「本業」以外に精を出した。
私は、ゆたか病院で「地域に支えられる医療」、大田歯科、大田病院では民主経営の難しさとトップの役割を教えられました。これらは議員活動に生きていると思います。
 ●私は、ゆたか病院から大田歯科、法人本部事務局、大田病院に勤務。94年に三ツ木診療所に転勤する予定でしたが、95年の品川区議選に立候補することになりました。体調の関係で引退するあぜ柳誠一さんの後継者が決まらず、後援会長の市川俊夫先生(当時ゆたか病院院長・法人理事長)から立候補の要請があり承諾しました。
 私は事務系職員の後継者育成を最大の目標としていたが、これは他の仲間がやってくれることを信じて立候補。今でも、立候補してよかったのかと悩むことがあります。

 私の生まれたところ・自己紹介

●訪問看護ステーション開設―公約実現第1号

 私の最初の選挙のときの最大の公約は、訪問看護ステーションを民間にも開設させることでした。ゆたか病院の訪問看護は区内では草分けで20年を超える実績がありました。ところが、品川区は訪問看護ステーションは品川と荏原の両医師会立だけでゆかた病院など他の開設は認めようとしていなかったのです。私が議員になって最初の本会議質問から何度も取り上げ、医師会にも働きかけて認めさせることができました。



●「みやざきニュース」と自転車宣伝

 私は毎週のニュースに図や表など工夫しています。地域のみなさんに私(および党区議団)の活動と主張などをわかりやすく伝えたい、日ごろご無沙汰している方々に少しでも身近に感じていただきたいと心を込めてつくっています。
 私の自転車宣伝のことを党地区委員長は「町の風物詩」と言いました。もちろん、まじめな話ではありませんが、かなり「有名」なのは確かのようです。「共産党の元気な姿を見せたい!」の気持ちでやっていますが、実は本人はかなり恥ずかしいのです。ですから見かけたときにはぜひ声をかけてください。

●護民官として

 ソ連がなくなって、なぜ日本に共産党があるのか―以前よく言われたことがある。そのときは、医療・福祉、住民の暮らしを守る闘いがあるから日本共産党がある―と反論した。「護民官」は入党した当時教えられた言葉だが、私の土台かもしれない。これを忘れずにこれからもがんばります。