菊地 貞二



[家族] 妻とニ男

[趣味] 船釣り

[現住所]
品川区東品川 3-17-4-212
-略歴-  
1953年

北海道札幌市苗穂町に生まれる。4歳のときに父親がすい臓ガンにて死亡。以後、小学校5年生までを夕張市の祖父母のもとで過ごす。その後、勇払郡追分町にて母、兄弟と中学校卒業までを過ごす。

 
写真は1・2歳ごろ

1968年 北海道勇払郡追分町立追分中学校卒業を卒業後、東京港区の大成ステンレス工業(株)に入社。民青と出会う。
1972年 日本共産党に入党。
1976年 (株)釘貫商会入社。区議会議員候補者となる1998年まで勤務。
1999年 初当選。現在、建設委員、行革特別委員、(付属)奨学金運営委員、(団体)国際友好協会評議員。

−入党・議員となった経緯
 父親の死亡後、母は5人の兄弟を育てるために失対事業に従事。朝早くから懸命に働く母の後姿を見てきた。いくら働いても暮らしていけずに借金をしたこともあったように記憶している。母親の苦労が、就職後の生き方を決定付けたと思う。たとえ、親がなくても安心して生活ができる社会のあり方は、赤旗を読み出した17歳の頃に考えるようになった。
 民青で活動を始め、19歳のときに入党。(1972年)
 入党した際、仲間達から言われたのが、「バッチを持たないけれど俺たちは政治家だ。青年や住民が生きがいを持って暮らせる社会を作ろう」この言葉はいまだに胸に染み込んでいる。
 兄は高校卒業後、国鉄に入社。機関士として働いていたが国鉄分割民営化闘争で広域配転され、JR広町アパートから北海道に移り住んだが、わずか1年後に心臓発作による突然死。ストレスや労働強化が起因していると思わざるをえない。議員候補者となる要請を引き受けた最大の要因はここにあったと思う。庶民の生活など、いっさい考えずに進められる営利企業化した政治を変えるという、偉大な事業をなしとげる一員であることを誇りに思う。


写真は演説中


−誰もが安心して暮らせる社会を目指して−
 わたしは、今日まで三十年間を零細企業で働き、自らも経営に携わってきました。
 長期におよぶ大企業奉仕の自民党政治によって、中小零細の商工業者は、どんなに経営努力をしようとも単価の切り下げや、消費不況のなかでゆきづまりを見せています。
 高橋区政は品川の大規模開発、小規模商店がつぎつぎと店を閉めていく大型店舗の出店、お年寄りの福祉や、保育、教育の予算を切り捨てる住民犠牲の地方行革、どこに地方自治の本旨があるのでしょうか。
 日本共産党員となって二十六年、社会の仕組みさえ変えれば差別のない、弱いものいじめのない、誰もが安心して暮らせることを教えてくれた「赤旗」と共に生き、多くの方々と出会い、いろいろなことを学んできました。
 「住民が主人公」の立場をつらぬき、みなさんから寄せられる一つ一つの要求を区政の場で実現するために先頭に立ってがんばる決意です。  

−菊地貞二さんは信頼できる人−
株式会社釘貫商会・代表取締役社長・釘貫総人

 企業においても社会においても、求められる人はそれなりの人望があります。
 菊地貞二君は、まさにその人です。
 取引先でも部下に対しても信頼があり、今後に大きな期待をしていた人です。その人柄は、努力家、勉強家であり、抜群のアイデアを豊富に持ち、意志また強固な人でもあります。
 その彼が、現在の不況に悩む中小零細企業の内情を知り、政治の失墜を感じ、社会に貢献したいとの申し出があり、わたしも断腸の思いで送り出しました。
 彼なら今、国民・住民が望んでいるさまざまの問題の解決に、持ち前の力を十分に発揮し、前向きに対処し、社会のために大きく羽ばたいてくれることを信じております。