飯沼 雅子
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-略歴- | |||||||||||
1949 | 西五反田に生まれる。 | |||||||||||
第一日野小学校卒業 | ||||||||||||
日野中学校卒業 | ||||||||||||
八潮高等学校卒業 | ||||||||||||
練馬保母学院卒業 | ||||||||||||
品川区立保育園(東五反田・小山台・荏原西)で保育士28年。 | ||||||||||||
1999 | 初当選。 | |||||||||||
2019 | 品川区議引退。 | |||||||||||
-私の生い立ちと家族-
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-共産党と私- 実家が夫婦で切り盛りする材木屋で、男が主で女が従という関係を目の当たりにしてきたこともあって、将来は女性が輝ける職場で働きつづけたいと思っていました。でもその当時、女性が自立して働ける職場は今ほど多くなく、看護婦か保母、どちらになるかでずっと悩んでいました。悩みぬいた挙句、子どもがすごく好きだったので、保母になろうと決意しました。日野中学校の終わりぐらいだったと思います。都立八潮高校を卒業して、練馬の保母学院に入学し、保母になるための勉強をしました。卒業後、品川の保育園に就職し東五反田、小山台、荏原西保育園を歴任してきました、この後28年間続く保母としての生活をスタートさせました。私が共産党に近づいたのは、保母としての生活を始めてからでした。働く女性の問題が、ものすごく共産党の活動と関わってくるということに気づいたこともありましたが、一番大きく影響を受けたのは、園児のお父さん、お母さんからでした。夜遅くでも何でも、子どものためならどこにでも出かけていく、今ではあたり前の産休明け保育、手づくり給食を実現。品川の保育がどんどんよくなっていく時期で、親の働く権利と子どもが健やかに育つ環境を両立させようと、父母と職員が手を取り合って運動を進めていた時期でした。そういう時期に誘われて入党しました。
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-区議会議員への道- 子育ては「てつなぎ」ですから、子どものための保育教育環境を整えるための運動にとって、父母と職員が手をつなぐことはとても重要でした。区民の声を聞こうとしない高橋区政は「手つなぎ」を嫌い、署名活動に規制を加えられたり、職員を減らし、問題があるのに「問題はない」として覆い隠してしまおうとする現実をかえたかった……。前回地元の議席、パイプ役を失い、又どうしても自分の地域から区議を出したいと思っていました。そして一番大きかったのは新婦人の活動でした。色々な人たちとの交流がある新婦人で、地域の人たちの声を区議会に届けたいと思いました。「区議に」という声がかかったときは、正直言って驚き、戸惑いましたが、新しい世界で、新しい生き方を模索することも自分に必要であり、それが品川に生きている人々の力にもなるならばと、清水の舞台から飛び降りる思いで立候補を決意しました。その結果、みなさんの力で当選することができ、現在に至っています。議員になって4年。行政に対して言いたいことが山ほどあります。「どうして自分たちの町なのに自分たちの意見が通らないんだ」という、区民のみなさんの声を区政に反映させられるように、これからも全力で区議の仕事を務めたいと思っています。
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